FC2ブログ
破壊の前に創造を
みんな知ってると思うけど、実はこのBLOGは旅行日記。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
会津若松
会津城

会津
400年前、会津若松に入った蒲生氏郷は城を中心に碁盤の目に道を通し、城郭の内外を堀で仕切り、外に商人や職人を住まわせた。
飯盛山は戊辰戦争での白虎隊の悲劇の舞台でもある。

鶴ヶ城
1593年蒲生氏郷が7層の天守閣を築き、鶴ヶ城と名付けた。
明治7年に天守閣は取り壊されたが、今は復元されている。

御薬園
御薬園
会津松平氏の庭園。江戸時代、薬用ニンジンが植えられて以来御薬園と呼ばれた。400種類以上の薬用植物や御茶屋御殿、心字の池などがある。

旧滝沢本陣
旧滝沢本陣
会津藩氏が参勤交代などに使った休憩所。柱や壁に白虎隊の奮戦の証となる弾痕や刀傷が残っている。
白虎隊
白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、15歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。
鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。会津藩では若松城を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。
しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち二番隊は戸の口原で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。だがここから眺めた戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認し総勢20名が自刃。一命を取り留めた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除き全員死亡した。他の隊も市街戦や籠城等の末、戦力としては壊滅した。
戸の口堰洞穴
戸ノ口原洞穴
白虎隊士が通った洞穴。

さざえ堂
さざえ堂
さざえに似ている6角3層のお堂。階段が無い螺旋状の坂を上っていくと、途中から下りになっていて、上りと下りでは同じ坂を使わない不思議な回廊。(二重螺旋)

東日本一人旅5日目:8月10日
早朝、漫喫を出発し長岡の町を1時間ぐらい歩いた後、長岡から会津若松へ。会津若松駅のコインロッカーに荷物を放り込んで、バスの1日周遊券を買って鶴ヶ城へ。天守閣に登り、茶室(千利休の子供が作った)を見学。その後、歩いて江戸時代の天文台などを回り御薬園へ。
ハイカラさん(ループバス)に乗り、会津武家屋敷に行き、見学した後ハイカラさんを待っていたら、1つの名前で2つの停留所があることに気付かず、俺を含め8人がハイカラさんに乗り損ねるアクシデントがあったり。
やっとこさ飯盛山に到着し、白虎隊の墓、さざえ堂、戸ノ口原洞穴などを見てまわった。白虎隊記念館は閉館5分前で諦めた。旧滝沢本陣を見た後、白虎隊伝承館へ行くと戸締り仕掛けていたけど、館長のおっちゃんが「せっかく大阪から来たんやし、見終わるまで閉めるの待ったる。」と言ってくれて開けてくれた。
スポンサーサイト

テーマ:一人旅 - ジャンル:旅行

コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
copyright © 2005 破壊の前に創造を all rights reserved.
Powered by FC2ブログ.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。